二大コーヒーチェーンを巡る圧倒的シュミレーションについて
夕方
めちゃくちゃ腹が減ったので、コメダ珈琲へ行きたい。
自分は「コメダ珈琲」が大好きなのである。
大好きすぎるが故に、コメダ珈琲へ行く機会が訪れた途端、常軌を逸した「コメダ珈琲へ行こう」を連発する
本当今しかない。
次? 次ってなんだ、コメダに次訪れるタイミングが分かるのか
コメダだ。注文時に尽く「たっぷり」を付け、シロノワールみたいな体型になって満足したい
いいからコメダへ行くぞ────
しかし、大問題がある。
実はコメダ珈琲、5~6回ほどしか行っていない。
これだけコメダコメダと騒いでいるのに、片手で数える程しか入店していないのだ。これにはシロノワール並に何層もの訳がある。
第一に、近辺にコメダ珈琲が存在しない。無い店には行けない。ドトールならある。
しかしドトールはコメダ珈琲ではなく、コメダ珈琲もまた、ドトールではない。
ドトールにて「シロノワール1つ」と注文しようものなら、季節限定ドリンクの「青森県産りんごストレートジュース」を頭からぶちまけられる。否、そこまではされない。シロノワール並に、盛りすぎた
第二に、メニューの語彙が貧弱であること。先程からシロノワールを連発しているが、これは「生まれてからシロノワールしか摂取していない」という昆虫じみた生態ではなく、あくまでも来店数が少ないゆえ。
せめて、偶然コメダ珈琲があるなら積極的に通ってメニュー名を覚え、シロノワールという地獄から脱出したいものだ。
さて、これほどまでにコメダ珈琲へ行きたいが、近場にはない。しかしドトールなら存在する。
故に、コメダ珈琲に行きたい時は、きまってドトールへと向かう。極めて異質な行動といえるだろう。
「(コメダ珈琲がよかったナァ…)カフェラテのLサイズをください」
コメダ珈琲に行きたいのに、行けずにドトールへ行く。この圧倒的に理不尽な現実を、どうにかして脱却したい。
①素直にコメダ珈琲へ遠出する
②コメダ珈琲の近くに引っ越す
③コメダ珈琲の天井に住む
④コメダ珈琲の厨房の冷蔵庫の隙間に潜む
この4つが挙げられるが、一般的に、常識的に、人間として考えるならば①か②が適切だろう。
③は、シンプルに犯罪であるし、④はシンプルに犯罪である。
しかし、④は強烈なリスクと引き換えに、コメダ珈琲の全てを知り尽くせる可能性すらある。
それはメニュー名に限らず、その店舗内の人間関係、しっかり運営出来ているかの調査など。
完璧だ。「天井に住む」だけでは、コメダ珈琲という店舗の「天井」しか分からないし、「天井」を知ったところで、コメダ珈琲の何かが分かるわけではない。
さらに、仮にバレたとしても
・天井
「不審者がコメダ珈琲店の天井に張り付いている」と通報され、弁解しようにも「コメダ珈琲の天井に張り付いていた」という事実は揺るがない
・冷蔵庫の隙間
バレた直後に冷蔵庫から脱出し、優雅に豆菓子をポリポリと貪りながら「嗚呼……」と幸福に満ちた表情を浮かべて店外へと歩けば、完全犯罪となる
ケアも万全。これにより、コメダ珈琲へ行きたいという欲望を満たすためには、
①コメダ珈琲の冷蔵庫の隙間へ忍び込む
②コメダ珈琲の全てを知る
③優雅に豆菓子をポリポリと貪りながら「嗚呼……」と幸福に満ちた表情を浮かべて、店外へと脱出
この方法が完璧だ。
これは画期的。自らの発想に引いている。素晴らしい。待っていろコメダ珈琲。
御店の冷蔵庫の隙間をせいぜい掃除しておくことだ─────
結局のところ
ドトールも
良いですよね
このブログの存在意義と最近の異常な眠気について
このブログは何故生まれたのか、如何にして誕生したのか
それはとても長くなる話……ではなく、ただただ文章を書きたいという鬼のような稚拙感を漂わせる欲望が、その最大の理由である。
ふと脳内で無限に広がる言葉の羅列を、ブログという自由すぎる媒体に書き起こし、謎の満足感を得ることが目的。
だからといって有益性をもたらす内容かといえば、全くそうではない。至極、意味の無い情報を垂れ流す狂気のブログとなるだろう。
さらに、この記事はTwitterやFacebookといった媒体に投稿することはない。
故に、完全なる閉ざされた空間
絶海の孤島。外部から完璧に遮断された異の世界
つまり、数多の視線からこのブログは排除されているために、何を書こうが「滑る」ことがない。「滑るほどに面白みがない」とジャッジする視点が存在しないのだから。
仮に誰かがこのブログを発見し、運悪く目に入ってしまっても、この洗脳に近い文脈を見て純粋に恐怖し、トラウマとなって心理士のお世話になる可能性は極めて大きい。
よって、この愚鈍すぎる記事が外部に漏れる心配もない。アフターケアは万全といえる
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さて、最近クソ暑いのだが、時折「めちゃくちゃ眠くなる」ことがある
それは食後や深夜などではなく、午前11時~16時という真っ昼間の時間帯に、外に居ながら突如として猛烈な眠気に襲われる。
そして、そのタイミングでは、決まって建物外にいる。
熱中症の類を疑う他なく、「熱」「中」「病」の三文字が総合的に身体を蝕んでいる、以外に考えにくい。
しかし水分は摂っているし、クソ暑いのも事実だが、水分は摂っている。
水分を摂っていることしか主張する意見がないが、いずれにしても熱中症になっている自覚がない。
しかしながら、熱中症とは気付けば「なっている」ものである。熱中症になってしまった人は、誰しも「あ、来ました。来ましたね。熱中症ですよこれ」と自覚する前にぶっ倒れる。
ならば、この「日差しの中でクソ眠くなる」のは、熱中症になる直前という尋常でないほどピンチな状態なのだろうか
怖すぎる。
その仮定が正しいのならば、眠気は「まもなく熱中症となります」と懇切丁寧に教えてくれていたのかもしれない。
「クソ眠い」なんて言って本当に申し訳ない。
「最高に眠い」と表現を改めようと思う。
そして建物の外ではこまめに水分を補給し、出来るだけ日陰を歩こう。そうしよう
そもそも「眠い」ことが「悪い」かのようなイメージは良くない。
身体からの、休めという合図。
その合図を「クソ」などと言うのは、究極のエゴイズムにして他ならない。
なので、人間、いや生物としての本能である「眠み」を受け入れるのだ。
嗚呼、眠くなってきた
来ました。眠気
それでは
眠気を受け入れて
新たる
ステージへ───────
猛暑と駅と世界平和について
最近、尋常でなく暑い。誰もが身に染みて感じているだろう。ただただ、暑い。
一部地域では40℃などという絶望的な気温に見舞われており、それはもう、絶望的
まだ7月だというのに40℃。神が天気の調整をミスっているとしか思えない。
いや、そもそも「神」が「天気」を「調整」するという前提、この気でも狂ったような思考、既に暑さにやられているのでは?
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